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誰ひとり取り残さない社会を作るために。経済学者・宇沢弘文が伝えたい、社会的共通資本で考える「ゆたかな社会」【勉強会レポート・前編】

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取材・執筆=目次ほたる/編集=いしかわゆき
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友海
誰ひとり取り残さない社会を作るために。経済学者・宇沢弘文が伝えたい、社会的共通資本で考える「ゆたかな社会」【勉強会レポート・前編】

こちらの記事はCQ note記事の原文転載となります
元記事:誰ひとり取り残さない社会を作るために。経済学者・宇沢弘文が伝えたい、社会的共通資本で考える「ゆたかな社会」【勉強会レポート・前編】


私たちは「自然環境」を土台として、さまざまな資源を享受することで、よりゆたかで便利な社会を発展させてきました。

しかし、今日の資本主義社会においては、経済発展のためにより多くの生産と消費が繰り返されるなか、自然環境の重要性が軽視されてきました。

経済成長のために自然破壊や気候変動が進むなかで、私たちが持続可能な世界を実現し、幸せに暮らしていくためには、どのような社会を目指していけばよいのでしょうか。

この途方もない課題に対する1つの答えとなるのが、「資本主義と闘った男」と評される、経済学者の宇沢弘文氏が提唱した、「社会的共通資本」という概念です。

社会的共通資本とは何なのか、なぜ現代社会に必要されているのか、そしてこの概念を私たちはどのように社会に反映させていけばいいのか。

2024年3月15日にエネルギーをテーマとした勉強会*にて、宇沢弘文氏の長女・占部まり氏をお迎えして、宇沢氏が提唱した「社会的共通資本」についてご講演いただき、様々な企業から有志でご参加いただいたみなさまと共に対話を実施しました。

本記事では、前編で占部まり氏の講演、後編では「社会的共通資本×エネルギー」「社会的共通資本×プラネタリーヘルス」の2軸をテーマに、パネルディスカッションを行い、参加者同士での対話を実施した様子をレポートします。

*テクノロジーの進化、人々の考え方や生き方、価値観の変化、温暖化をはじめとする様々な社会課題など、時代の変化とともに社会経済システムも新旧の価値観も新旧がぶつかり、変容しようとしている。 この勉強会は、こうした社会経済システムの変容の中で重要なテーマであるエネルギーを中心に、その転換期において企業が直面するジレンマに対して、各社・各人の異なる視点を持ち寄り、これから生き残っていくためにどのように対処していけばよいのか、社会に生きるひとりとして議論する“緩やか”な場を、オムロン フィールドエンジニアリング株式会社、関西電力株式会社、株式会社meguriが企画し、企業を超えた有志で不定期に開催している。

宇沢弘文
日本を代表する経済学者。社会的共通資本という経済理論は新しい資本主義を支えるものとして注目を集めている。1950年代から経済成長に関する先駆的な研究を米国や英国などで行っていたが、1968年日本に帰国後は公害や地球温暖化、格差など、市場での利益を優先することで起こる弊害や、新自由主義的な考えが引き起こす社会問題に向きあった。水俣病や国土開発計画(むつ小川原計画など)、成田闘争などの現場へ出向き調査を重ね、発言・行動する経済学者としても知られていた。本質的に豊かな社会を目指し、様々な提言を行った。地球温暖化に対しても、1980年代から発言しており、国民総生産や熱帯雨林の保有率などを加味した“比例型炭素税”は、炭素税の不平等の是正を目指している。

占部まり
宇沢国際学館代表取締役 日本メメント・モリ協会代表理事。1965年シカゴにて宇沢弘文の長女として生まれる。1990年東京慈恵会医科大学卒業。1992~94年メイヨークリニックーポストドクトラルリサーチフェロー。現在は地域医療に従事するかたわら宇沢弘文の理論をより多くの人に伝えるために活動をしている。宇沢国際学館代表取締役、日本メメント・モリ協会代表理事、日本医師会国際保健検討委員。JMA-WMA Junior Doctors Network アドバイザー。

社会的共通資本とは、「人々がゆたかな生活を営むうえで必要なもの」を国や地域で守る社会の在り方

そもそも、「社会的共通資本」とは何なのでしょうか。宇沢氏の著書『社会的共通資本(岩波書店)』には次のように書かれています。

「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」

宇沢氏の言葉をより平易に表現すると、社会的共通資本とは、「人々がゆたかな生活を営むうえで大切なもの」を指します。

社会的共通資本は、3つのカテゴリに分けられます

・「自然環境」
→大気、海洋、森林、河川、水、土壌など
・「社会的インフラストラクチャー」
→道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど
・「制度資本」
→教育、医療、司法、金融など

大気や水、社会インフラなど私たちの生活に欠かせない社会的共通資本を「市場原理主義にのせ、利益を貪る対象とならないよう、国やその地域が守るべきだ」という考え方を、宇沢氏は提唱してきました。

とはいえ、資本主義が悪だというわけではありません。重要なのは、資本主義の恩恵を受けつつ、「社会的共通資本」を全体で守っていくことだと、占部氏は語ります。

占部氏「市場だけに任せると、人々が必要としている『社会的共通資本』の価格は上がってしまい、取り残される人々が出ます。

では、社会主義に切り替えればいいかといえば、そうともいえないことが今の社会を見て、おわかりになるのではないでしょうか。

私の専門である医療の領域でいえば、公衆衛生の向上やワクチンの普及は、資本主義がなくては実現していませんでした。それぞれの特性を生かした社会を作ることが重要なのです」

多くの人々が所属する「企業」という仕組みもまた、資本主義の枠組みのなかで、利益を生み出すことが特性です。

企業は社会を前に進め、イノベーションを起こしていくうえで重要な役割を持つからこそ、そんな特性を前提としたうえで、企業活動が社会へどのような影響を及ぼすのか、ゆたかな社会に繋げていくにはどうすればいいのかを考えていく。それが「社会的共通資本」の基本となる考えなのだと、占部氏は言います。

経済学で軽視されてきた「お金で換算できないものの価値」

「社会的共通資本」とは、「人々がゆたかな生活を営むうえで大切なもの」と説明しましたが、「ゆたかな生活」とは何なのでしょうか。宇沢氏は次のように定義しています。

ゆたかな生活とは
すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力を充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーション(熱望・大志)が最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生を送ることのできるような社会。

この理想的ともいえる「文化的水準の高い一生を送ることのできるような社会」を実現するためには、「お金に換算できないものの価値」に目を向ける必要があると、占部氏は言います。

そんな「お金に換算できないものの価値」を表す、興味深いデータを見せてくださいました。

占部氏「このデータは、各地域において住民一人当たりの生活保護費を示しています。一見すると、大阪市が118,000円出せるのに対し、新潟県小千谷市は5,800円と、大阪市のほうが潤沢な支援があるように感じます。

しかし、このデータを提供してくださった経済学者・藻谷浩介さんの分析によれば、新潟県小千谷市はお金以外の資源が豊かであるため、生活に困りにくいのではないかという仮説が見えてくるといいます。

つまり、これからの時代にゆたかな生活について考えるうえで、お金に換算できないものの価値がより重要になるのではないかという仮説が成り立つわけです」

一方で、経済学においては、子どもや自然など市場で取引されることのない、「お金に換算できないものの価値」ほど軽視されてきたのだと、占部氏は続けます。

市場での価格がつかないものは経済学では扱いにくいため、軽視されてしまう。それらを守ることが、「社会的共通資本」という概念の根幹にあります。

誰もが必要とする反面、利益を生み出しにくい。「社会的共通資本」の特徴

ここまでで、「社会的共通資本」は「自然環境」「社会的インフラストラクチャー」「制度資本」の3つによって構成され、お金では換算できない価値を持つものだということがわかりました。

では、そんな「社会的共通資本」が「市場原理主義のなかで利益を貪られる対象」になりやすいのはなぜでしょうか。占部氏によると、それは「社会的共通資本」の持つ特徴に起因するといいます。

社会的共通資本の特徴

・誰もが必要とする            
・ 需要が途切れることがない 
・ 利益を生みにくい
・ 私的所有が許されることがある

占部氏「まず、『社会的共通資本』は、需要が途切れることがないため、価格が上がっても、買わざるをえないという特徴があります。

その一方で、利益を生み出しにくいという特徴もあるのです。例えば、医療において、医者が人々の健康を目標にすれば、その目標が達成されたときには、患者は1人もいなくなり、医者は利益を生み出すことができなくなります。

電気やガスなどのエネルギーや、教育なども真面目に運営すればするほど、利益を生み出しにくいのです」

占部氏によると、全員にとって重要にも関わらず、私的所有が許されることも「社会的共通資本」の大きな特徴なのだそう。

「社会的共通資本」は、民間と行政のどちらもがバランスよく管理することが求められています。

大切なものをお金に変えないことで、「誰ひとり取り残さない社会」を作る

「社会的共通資本」を守ることの重要性について、理解を深めるために、宇沢氏の定義する「ゆたかな生活」に、改めて注目してみましょう。

「一人ひとりが自分の持つ能力を活かせること」「相応しい所得を得られること」「幸福であること」など、宇沢氏の提言するゆたかな生活を持続的・安定的に維持することは、「SDGs」の実現に繋がるのです。

SDGsは、人類がこの地球で暮らし続けていくために達成すべき目標として、17の目標が立てられました。

このポスターが採択された際に、「17のゴールが、バラバラに存在しているように見えてしまわないか」というディスカッションがあったそうです。。

17の目標すべてが有機的に繋がることで、誰ひとり取り残さない社会ができる。そんなメッセージ性が薄い」という意見もあったそうですが、わかりやすさとデザイン性が優れているということでこのポスターが採択されました。

そして、「社会的共通資本」こそが、このSDGsを有機的につなぐ考え方なのだと、占部氏はいいます。

宇沢氏がローマ法皇に社会的共通資本を説明した際に、その会場にSDGsの基本を提言したジェフェリー・サックス国連顧問がいらっしゃいました。

彼は宇沢氏の愛弟子のジョセフ・スティグリッツ氏とも交流が深いので、SDGsが社会的共通資本の考え方から大きな影響を受けていることは間違いないでしょう。

占部氏「『社会的共通資本』を守ることは、『大切なものをお金に変えないこと』、そして『人間の想像力が及ばないものを守る』ことです。

人々の想像力は豊かであるものの、この世界に暮らす全員の幸福を個別に考えていくことはできません。

社会的共通資本を守ることは、そんな想像力が及ばない人々を守ることにも繋がると、宇沢は伝えたかったのだと考えています」

SDGsは、2030年までに達成されるべき目標とされていますが、「社会的共通資本」はさらにその先の未来を考えるうえで役立つものなのだと、占部氏は教えてくださいました。

宇沢弘文が日本で目の当たりにした「みんなのため」に作られた社会システムによって、犠牲になる弱者の存在

「社会的共通資本」について知るなかで、宇沢氏は経済学者でありながら、なぜ「大切なものをお金に変えないこと」を基軸とした概念を提唱したのか、不思議に思う方もいるのではないでしょうか。

占部氏は、自らの父である宇沢氏を「経済学という学問を通じて、人々がゆたかに幸福に暮らせるような社会はどのようにしたらできるかということを突き詰めていた男」だと表現しています。

経済成長はなくとも、ひとたび人々の生活に入り込めば、ゆたかさを享受できる社会の在り方が、現在の社会的共通資本のベースとなっているのだと教えてくださいました。

また、1980年代、アメリカを中心起こった新自由主義の「選択の自由」において、個人の選択や自由の重要性が説かれる一方で、宇沢氏は本当に自由に選ぶことができるのは「買うか買わないか」だけだと、主張したのです。

市場原理主義において、個人は選択をしているのではなく、あくまでも社会に選択させられているにすぎない。

社会に蔓延する問題を、個人の選択の末の自己責任として捉える新自由主義の考え方には無理があるのではないか、と占部氏はいいます。

その後、宇沢氏は、1968年に新自由主義が色濃くなっていくアメリカを後にし、日本に帰国することになります。そんな彼を待ち受けていたのが、「高度経済成長期」です。

数字のうえでは目覚ましい成長を遂げた日本。しかし、宇沢氏の目に映ったのは、ゆたかさを失った祖国の姿でした。

経済成長の裏で、車社会となり遊び場を失った子どもたちや、公害に苦しむ患者など、弱者を犠牲にする社会を目の当たりにしたのです。

宇沢氏はそんな日本社会に衝撃を受け、これまで学んできた数理経済学に限界を感じ、次なる経済理論を生み出そうと邁進しました。

占部氏「世の中には『みんなのため』と銘打って生み出された社会システムに溢れています。しかし、みんなのために生まれた高度経済成長で子どもや公害病患者が犠牲になったように、必ず社会システムから外れ、犠牲になる弱者がいるのです

人間は想像力が豊かでありながら、自分にとって不都合なことは忘れてしまう『認知的不協和』という脳の性質を持っています。

宇沢氏は、こうした人間の性質を踏まえたうえで、どうすれば誰ひとり取り残さない社会を実現できるかを、生涯にわたって考えつづけた経済学者なのです。

ゆたかさとは「余剰」。目指すのは、誰もが見返りを求めずに与えられる社会

勉強会前半の結びに、占部氏は「改めて問いたいのは、ゆたかさとは何かということです」と、参加者へ問いかけました。

占部氏「あるお坊さんに、ゆたかさとは、余剰だと教えていただきました。余剰とは、見返りを求めずに、与えられるもののこと。それは、お金であり、知識であり、時間でもあります。

誰もが見返りを求めずに与えられる社会を、我々は作ろうとしているのではないでしょうか」

人間は成長を求める生き物です。資本主義はそんな人間の性質と相性がよく、よりたくさんのものを売り、よりたくさんの消費をする、今日の社会を形成してきました。

しかし、私たちはその裏で犠牲になっているものの存在に思いを馳せる時間を持てない。それは、私たちにとって多くの犠牲が「不都合なもの」であるため、無意識に目を背けているからではないでしょうか。

サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の一節に、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」というセリフがあります。

「社会的共通資本」は、私たちのゆたかな生活に欠かせない存在ですが、なかなかその重要性に気が付けないもの。

しかし、アダム・スミスが『道徳感情論』で、「人間には、他の人のことを心にかけずにはいられない何らかの働きがある」と述べたように、人の心には深く共感する能力が備わっています。

見返りを求めずに与えられる「余剰」と「共感力」を持って、取り残されてきたものに目を向けることが、宇沢氏の示す「ゆたかさ」に繋がるのではないでしょうか。